「月夜のタヌキ」プロジェクト

物語のいでき始めのおや 〜月夜野アーカイブ〜

「物語のいでき始めのおや」とは、竹取物語のことを指した源氏物語のなかにあることばです。私たちは、「月(ツキ)」と「運」だけで勝負できるこのまち月夜野に、たくさんの物語を育てていきます。2016年、月夜野が日本百名月に登録されたことを機に、みなかみ〈月〉の会を結成しました。

カテゴリ:月夜野地区まちづくり協議会 > ④短期・短気抜き

1、月夜野妄想倶楽部が考える50年後の「教育」



 今の学校教育にいろいろと疑問を感じている人も多いかもしれませんが、ではどのような教育の姿であれば良いのか、私たちは将来の具体的ビジョンについてはあまり聞くことがありません。

 不登校の問題や教育格差の拡大、なかなか変えられない受験特殊技能教育の弊害や国際競争力の低下、等々。

 現場の先生方も親たちも、今の課題に追われるのに精一杯で、将来のあるべき姿までは考える余裕がないばかりか、考えてもそれを実現したり変えたりする権限がないからと、すぐにあきらめてしまっているようにも見えます。

 では、私たちが、何の権限も保証もないけれど、理想として考えられる将来の教育の姿がどのようなものであるのか、そんなの妄想にしかすぎないとバカにされようが、まずは想像力を働かせて考えるだけ考えてみることにしましょう。


  一人でみる夢はただの夢にしかすぎないが、みんなで見る夢は現実になる。(ジョン・レノン)




 まず
環境の変化で一番顕著な影響を及ぼすのは、ネット環境の普及浸透であると思います。

 日常のあらゆる場でネットへのアクセスが可能になることはすでに確実になっていますが、知識・記憶学習の領域が教育に占める割合は、相当減るものと思われます。

 もちろん、どんなにネットですぐに調べられるとはいえ、個人の頭の中により多くの情報が入っていることは、どんなコンピューターにも勝る効果があります。
 ですが、その情報とは、今以上に加速的に膨大なものになるので、哲学や論理学的な問題の整理の仕方は重要性を増すかもしれませんが、従来のような誰もが同じ教科書で知識を習得する必要性は確実に薄れていくことが予想されます。

 するとその先に考えられるのは、    

 ①、従来の学校に近いものは小学校のみで、そこでは読み書き・計算と体づくり・掃除力が徹底される。


 ②、ネット環境が日常生活に浸透しているため知識習得型の教育は圧倒的に減る。
    自動翻訳技術なども浸透するため、クローバル化時代だからといって英語教育などを優先する意味が
   なくなり、基本の国語教育がより徹底されるようになる。

 ③、中学以降は自主教育が中心
。子どもが興味を持ったことがらを無限に学べる環境が整う。

    教師の主な役割りは、既存の知識を教えることではなく、子どもの興味関心を育て引き出す
   コーディネーターとしての面が重視されるようになる。

 ④、「学歴」には意味がなくなっているので、個人ごとの「学習歴」で人物をみるようになる。


 ⑤、個人ごとの学習機会が拡大すると同時に、異質な者同士が交流し学び合う意義も増大する。
    民俗や習慣の差、体力や知識の差のある者が同じ空間で学ぶ効果が認知される。

 ⑥、大学や専門学校に該当する分野が、社会人教育と連続的な過程になる。
    働きながら学ぶ学生の比率が青年期から社会人まで 、圧倒的に多くなる。


 ⑦、既存の学校よりも、図書館やバーチャル空間に学びの場が広がる。
    教科書の依存度が圧倒的に低くなるので、あらゆる空間で得られる「本の海」に埋もれた学びの環境が
    中心になる。 

 ⑧、資格を持った教師以外の様々な分野で活躍する専門家が多数、講師として登録・活用される。

 ⑨、教育の完全無料化の方が、社会のためにはトータルコストが安いと立証される。

 ⑩、子どもが育ち成長する自然環境が重視され、都会の学校であっても森が不可欠の空間となる。
     森の学校、山の学校、川の学校、海の学校、田んぼの学校、等々。

 ⑪、学びの場が、地域のあらゆる場所で保証されているので、不登校はまったくハンディではなくなる。

 ⑫、小学校の読み書き計算、体づくり以外の教育課程は、これまでの中学校であろうが、高校であろうが、
   大学であろうが、社会人になってであろうが、いつでもどの段階のカリキュラムでも、学ぶ機会を
   得られる。大半の授業は録画され、誰もがいつでも見れる。


 などなど、思いつくことをあげましたが、まだ気づいたことが出次第、書き足していきます。

これまでブログで時々書いて来たことを、ひとつの企画として提案してみたいと思っています。

それは、このブログのカテゴリーとしては「月夜の妄想倶楽部」の内容のことです。



科学技術の進歩めまぐるしい現代で、50年後の未来像なんて、はたして私たちは想像することができるのでしょうか?

いまの私たちは10年先ですら予測のつかない時代に生きています。

でも、次のようなことを考えてみると、50年くらい先のこの地域の姿を一度考えてみるということが、とても意味のあることと気づきます。
 
それは、月夜野の景観のなかに電柱のない風景を取り戻す提案のことです。

いま日本で1km無電柱化するには3.5億円かかるといわれてます。
つい最近、日本の遅れた無電柱化の進捗率のことが新聞記事に出ていましたが、世界のなかではとても遅れているレベルであると言わざるをえません。それでも、一昔前に比べたら、高崎市や前橋市、渋川市といった地方都市のレベルでもある程度進んで来た印象はあります。 

これを月夜野の田舎で電柱の地下埋設など行政に持ちかけても、とんでもないと一蹴されるだけしょう。

でも、もし50年後の月夜野を想像してみるならば・・・


おそらく日々目にする景観のかかに電柱のない状態は、
当たり前になっているのではないでしょうか。
 

今すぐには高額な予算がかかったり、そんな費用をかける意義があるのかなどと広い理解が得られないようなことであっても、50年くらいのスパンで考えてみれば、

①、日本の高額な地下埋設費用の異常さに気づき、技術的にもコストダウンの方法がみつかる。
 
②、エネルギーの各家庭での自給や地産地消が進み、送電線を延ばす必要性が減る。

③、電気および電気以外の省エネルギー技術が発達する。 

などの変化が起こり、今の私たちには想像もつかない技術も現実化されていると思います。

一度、こうした未来が確実にやってくることがわかれば、今提起しても相手にされないような課題であっても、そこに至る道すじや段取りは格段につかやすくなるものになるのではないでしょうか。



今の条件で考えたら、とても想像することもできない、ありえないような現実がいつの時代でも、未来には現実になっています。

まちづくりのテーマや目標を決めるにあたって、安易な言葉探しにとどまらず、具体的な未来像を考えるために、一度50年くらいのスパンの未来を考えてみてはどうでしょうか。

景観十年、風景百年、風土千年と言いますからね。



私たちが子どもだったころ

 それは東京オリンピックの開催とともに、高度経済成長へ突き進んでいった時代でした。
 そのころの私たちに現代の世の中の姿が想像できたでしょうか?
 
 今思えば、「未来=輝かしい科学技術の世界」として明るい未来を信じてましたね。


今の子どもたちが50年後の未来を想像したら、
 はたして、現代のテクノロジーに浸かった子どもたちは、そのような未来を想像するのでしょうか。
 われわれの時代よりは、科学技術偏重ではない未来像が考えられそうな気がします。



今のわれわれの世代が50年後の未来を想像したら 、
 それは、私たちが生きている間に、ぎりぎり目撃できるかもしれない未来です。
 もうそんなに生きてはいられないかもしれませんが、私たちがいまの子どもたちに約束する未来は
 考える価値はあると思います。
 それでも、今では考えられないような世の中を生きているであろうことは確かです。




以上のようなことを一度、文章や絵画、小説、アニメ、ジオラマなどによってそれぞれの世代が表現してみる企画として提案してみようと思っています。

戯れのような作業ですが、地域が自立するには、夢の自給率も上げておかないといけません。
 

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