「月夜のタヌキ」プロジェクト

物語のいでき始めのおや 〜月夜野アーカイブ〜

「物語のいでき始めのおや」とは、竹取物語のことを指した源氏物語のなかにあることばです。私たちは、「月(ツキ)」と「運」だけで勝負できるこのまち月夜野に、たくさんの物語を育てていきます。2016年、月夜野が日本百名月に登録されたことを機に、みなかみ〈月〉の会を結成しました。

カテゴリ: 月夜のアーカイブ

地域の歴史を知る連続講座 第2回
渋谷浩先生講演
 真田氏と小松姫(入会)
   ・・・現在に残る小松姫の足跡

2015年 1116日(月)午後7時から
下牧公民館にて
主催:月夜野地区まちづくり協議会
後援:下牧区 みなかみ町歴史がガイドの会














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後閑と下牧、師、三ヶ村の境界地図


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上の地図の裏面 赤穂浪士討入りの時代の判決文と大名の署名



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渋谷先生、貴重な講演をしていただきありがとうございました。

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 最近、渋川で知り合った宮司さんの奥さんの紹介で古峯神社へ行ってきましたが、この神社の講がなんと月夜野にもあったということを知りました。

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 古峯(ふるみね)神社のことを、その宮司さんの奥さんは古峯(こぶ)神社と言ってましたが、一般の神社の案内では、古峯ヶ原のことは(こぶがはら)と読んでますが古峯神社は(ふるみねじんじゃ)で通っています。

 様々な説明をみるとどうも、勝道上人ゆかりの地である古峯ヶ原(こぶがはら)が本来中心の地であることから、歴史をたどると(こぶじんじゃ)と呼ぶのが自然であるのかもしれません。

 とすると月夜野にあった古峯原講は、おそらく(ふるみねはらこう)ではなく(こぶはらこう)と言われていたのでしょう。(勝手な推測ですが・・・)

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 地域にある講には、伊勢講、御嶽講、修成講、十二講、太子講、夷講、大黒講、三峰講・・・等々、実にたくさんのものがありますが、それらのなかでもこの古峯原講は、とても盛んなものだったようです。

 『古馬牧村史』には、
「講員でなくてとも、家屋を新築したり、屋根の葺替をした場合には、この社に参詣して火防を祈願するものが多い。戦前まで数人が団体で代参する風習が継続していたようである。」
とあります。

 そして次のような面白い様子が書かれています。

「本史委員小野高吉ほか1名は、十九歳のとき、血気さかんな若者についてこの神社に参詣したことがある。早朝三時出発、徒歩で勢多郡花輪に出て足尾をまわり、その日の夜十時頃古峯原神社に到着、その日うちに火防の祈祷をすませ、翌朝四時には帰途につくという強行軍のため、食事も小用も歩きながら・・・・いやどうも大変な参詣であったと同氏は述懐されていた。」




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もう少し、いまの実態についてまわりの人たちに聞いてみたいと思います。

ご近所で、もし新築や改築の話があったら、古峯原講の再現も可能かもしれません。



勝道上人のことも、ずっと前から調べなくてはと思っていたので、ふたたび意欲をかき立てるいい刺激になりました。


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参照
尊崇の神域 古峯ヶ原 古峯神社 https://osusumetochigi.wordpress.com/2012/04/30/尊祟の神域%E3%80%80古峰ヶ原%E3%80%80古峰神社/

地域の歴史を知る連続講座 第1回
渋谷浩先生講演
 真田氏と四ヵ村用水 〜四ヵ村用水の歴史と背景を語る〜

10月19日(月)午後7時から
下牧公民館にて
主催:月夜野地区まちづくり協議会


 地元で四ヵ村用水の維持管理に直接携わっている方々にも多く参加いただき、とても充実した講演会になりました。


 (録画の音声が小さいため、YouTube音声、パソコン音声を上げてご覧ください。)

                       Vol.1




Vol.2



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これは圧巻! 中学生が作った四ヵ村用水の最も正確な図

 
 

Vol.3  質疑応答ほか



次回は、
11月16日(月)7時から
講師:渋谷浩先生 
「真田氏と小松姫(入会)」
下牧公民館 2F 

 地域の独自性は歴史や風土・自然、文化、産業、地名などさまざまな要素によって現れますが、なかでも私たちの暮らす「月夜野」という地名がもつ魅力には際立ったものがあります。
 それは、地元の住民よりも他地域の人たちから多くの憧れとしてみられています。

   月にまつわる地名は全国至るところにあります。でも「月夜野」という地名のもつことばの響きやイメージほど、格別の印象をよびおこす地名はありません。

 詩人の谷川雁はこう言ってます。
   「地名とは地霊の名刺ですからね」


 以下に、志賀勝『月曼荼羅』(月と太陽の暦制作室 発行)に紹介されている全国の月にまつわる地名をあげてみます。
   
          月輪(京都)、月ヶ瀬(奈良)、三ヶ月(松戸市)、月夜野(群馬県)、
          十六夜(島根県)、月見町(富山市、新潟市)、月見(福井市)、
          月町(新潟市)、月潟村(新潟県)、上秋月(福岡県甘木市)、
          月丘町(山口県徳山市)、月島(東京都)、月見ヶ丘(宮崎市)、
          月岡(三条市)、月崎(松前郡)、つきみ野(神奈川県大和市)、
          月浦(水俣市)、三日月町(兵庫県と佐賀県)、名月(多賀城市)、
          月出(熊本市)、愛知県・静岡県境に月という村が多数ある。

    山には月山(山形県と島根県)、月夜見山(奥多摩)、半月山(栃木県日光)、
    二十六夜山(山梨県、静岡県)、月の出峠(滋賀県)、三日月山(小笠原父島)、
    月待ちの滝(茨城県太子町)、月光川(秋田県)、
    大津市に月輪町があるがこれは月輪の池に由来、京都の嵐山に渡月橋があり、
    宇治川に観月橋がある。指月(京都府)、指月山(萩市)


 みられるように月にまつわる地名はたしかにたくさんありますが、「月夜野」のような土地の観月ムードをかもすような地名はそれほど多くありません。




 平成の大合併で旧月夜野町は、みなかみ町となり、行政単位としての月夜野町はなくなりました。
 そのときの月夜野町民の失望感は、それは大変なものでした。
 ところが意外にも、その後もいたるところに「月夜野」の地名は使われ生きつづけています。
 
 全国の市町村合併にも共通していることですが、行政の無駄をはぶき効率化するための合併問題と歴史風土にかかわる地名の問題は、別の問題です。
 現に合併後も旧地名を地元の人びとが使うことを妨げないと明言している地域も少なくありません。 合併後のみなかみ町にてとっても、町を構成するそれぞれの地域の特色を打ち出すことは、今後とも重要であると考えます。

    そしてなによりも「月夜野」という地名を、地域のかけがえのない資産として活かしていく知恵をより多くの人たちと築いていきたいものです。

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 月夜野地域で月夜野という地名とともに月をテーマにする意義と視点を考えてみると、以下のようなことが思い浮かびます。

1、「月夜野」がもつ観月に恵まれた地形
      (1)、東西に迫る小高い山越しの月の魅力(三峰山、大峰山、見城山)
      (2)、町明かりを隠す河岸段丘
      (3)、利根川を北上するほどに変化する景観
      (4)、古城跡など複数のすぐれた観月スポット
      (5)、誰もがあこがれる地名、月夜野。

2、暦(旧暦)にあらわされた自然のリズムと生命 
         ・ 1年を365日とすること以外は合理性・科学性のない太陽暦
         ・ 月暦(旧暦)こそ暦の真髄
         ・ 地域の多くの行事は、旧暦でこそ意味がある。

3、月が担ってきた心の表現の豊かさ。
           ・「花鳥風月」「雪月花」   ~ 日本的な文化の源~
           ・ 月夜野にかかわる三十六歌仙の二人
           ・ 太陽(アマテラス)偏重への疑問

4、一日の半分を占める「夜」の時間の復権
           ・ 人口照明に煌煌と照らされた夜の弊害
           ・ テレビに支配され固有性を喪失した暮らし
           ・ 夜こそ「創造」の時間、(昼は消費の時間)
           ・ 月のような「仄かな明かり」こそ夜の魅力

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 ここにあげたようなことがらは、実利や効率が優先される現代の暮らしからは、どれも気にしなければそれでも済んでしまうようなことばかりですが、それだけにここにあげたようなことがらは現代にこそ大切にする意義のあることばかりです。

 それは、薄紙を一枚一枚重ねていくような活動です。

 最近、この「月夜野」という地名に惹かれてわざわざ遠くからやってきて、後閑駅に降り立った人の話しを聞きました。
 その人はとても若い方でしたが、駅周辺を少し歩いただけで期待するような風景がない日本中どこにでもあるさびれた田舎の景観であることに失望して、すぐに帰ってしまったそうです。
 これもシビアな現実です。

 すばらしい資産を持っていながら、まだそれはどこをとってもほとんど磨かれていません。

 これから皆さんとそれら薄紙の一枚一枚を大切に開きながら、時間をかけて丁寧に磨き積み重ねていけたらと思っています。

 河内神社が正式な神社名であるが、一般に知られている神社名は三峰神社である。三つの峰を持つところから三峰山と称し、其処に祀られた神社故に称された社名である。祭神は大己貴命、日本武尊、少名彦命、菅原道真外七柱となっている。

 

 由緒、三峰山宝物写によれば、抑上毛利根郡沼田郷三峰山河内大明神由緒の義は、掛け幕も当初人皇七十八代二条院平治元年(1159)己夘十一月九日、河内国河内郡一宮牧岡の神社を此処に祭る。其の由来は社頭宮下の元祖、宮部右馬頭藤原義信とて、その古は河内国の領主たり。牧岡は藤原氏の神祖たり。よって殊更信心慇懃なり。 ー後略ー

 また、先進繍像玉石雑誌に曰く、河内大明神と言うは三輪神(大物主神外二神)と同体なりという。或は凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)を祭るという。 ー以下略ー

 

 さて、河内神社の由緒を掲げたのは、凡河内躬恒を引き出したい為であった。
三峰山宝物写には凡河内躬恒の名は見えていない。
先進繍像玉石雑誌がどのような雑誌であるかわからないが、畿内の凡河内氏は平安時代の史籍に多く下級地方官程度の所で表われ、歌人躬恒もその一人であったことが立証されている。

 躬恒は三十六歌仙の一人で、父は淡路権掾凡河内諶利である。
 躬恒の経歴は寛平六年(894)甲斐少目、延喜七年(907)丹波権大目、同十一年泉権掾、同二十一年正月三十日淡路権掾となり、その任を終えている。
 その間古今和歌集の選者を命じられ、紀貫之に次いで六十首の歌が採用された外、延喜の種々の和歌の催しに出詠し、二十一年の京極御息所褒子歌合への出詠まで続いており、没年は定かでない。  

 この躬恒が三峰神社の主神であるという伝えは何処から派生したのか。
 その大元は河内国河内郡一宮牧岡の神社を勧請して薄根の地に祀り、河内神社と命名したところにある。
 この河内と凡河内の河内が混同されて古今和歌集で名を馳せた凡河内躬恒を神に仕立てたものである。 
 都合のよいことに躬恒の没年が不明であったことも一助となった。躬恒が歌合せなどの判者を多く行なっていることから、いろいろな憶測が飛び交い、此処に一つの仮説が誕生した。そしてあたかも事実であったように宣伝され伝説化したのである。その根拠が「躬恒宮」の誕生である。 

 さて、その伝説であるが、躬恒は承平天慶の乱(940)の後の歌会で、村上帝の歌を書き損じたという咎(過失)により、上毛野国沼田郷の三峰山麓に流罪の身となり、単身のわび住まいを強いられた。

 その数年後の秋の候、妻の花萩御前が躬恒の住まいを訪れたが、生憎その日官吏の巡視日であったので、流された身ゆえ会うこと叶うまじ、といって再会は叶わなかったのである。
 その状況を妻の花萩は次のように語ったと伝えている。

「逢いに来てわらわ花萩は何を仕らんや。
ただ、ひたすらに吾夫(つま)の身を思うのみぞ。
逢えぬは死地に赴くよりも悲しきこと。
ひと目なりとも見ましきものを・・・・」 
と言って、わずかに開いていた戸の隙間から吾が夫を慕って、

 

 いかにせん哀しくばかり身をも浮く

   ささかに見ゆる吾夫を慕えば      (ささか=ごく僅かの意)

 

とやっとの思いで歌にして今の心境を夫に伝えたと言われる。
この歌に対して躬恒も、これが今生の別れ、と返した歌が次の二首であった。

 

 秋露の晴るる時なき心には

    立ち居のそらも思ほえなくに



 世を捨てて山に入る人山にても

    憂きときはいづちゆくらむ 

 

 花萩は、傷心の身を引きずりながら、近くの寺に身を寄せ、夫の戒めを解く二十一夜の祈りに入ったが、遠路の旅の疲れと逢えぬ傷心の思いから満願の日を待たずに天国に召された。 

 躬恒はこのことを大分後になって知ったのであるが、知ったときには躬恒も既に憔悴しており、「せめて髪の毛なりとも」と、官吏に懇願したという。
 だが、受け入れられず花萩が天国に召されてから半年も経たずにあの世へと旅立った。

 利根伝説書留記によると、村人達は躬恒と花萩の悲愴な死を悼んで、神として祀るべく凡河内躬恒を三嶺(みつね)と解して三峰山と称して、山中に祭祀してある十二神社に躬恒宮として合祀したという。
 その拝殿に、右の三首の歌、花萩の歌を中にした三首が明治の初期まで飾られてあったといわれる。

          ー利根伝説書留記・聞き取り(昭和三十五年)等ー   

 

                以上、飯塚正人『異聞 刀祢の伝説』啓文社印刷 より

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