人は誰でも間違いなく死にます。

新型コロナへの社会の対応の仕方は、死の迎え方というものを、私たちに問いかけた大切なものがあると思っています。
ところが現代医療は、当然のことながら死は限りなく遠ざけることこそを使命としています。
避けることの出来ない死をどう受け入れるのかを、現代社会はまだ真剣に考えていない。

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癌という病いの病状を見ている人は、癌ほど個性的な病気はないという。病状そのもの、かかり方、治り方どれもがその人それぞれで皆違うからです。
もっとも病いすべてが、人それぞれの環境、暮らし方、食べた物、出会った処置方法など違うのだから、病いが個性的でない方がおかしい。

とすれば、見送り方や葬儀なども、もっと個性的であって良いと思うけれど、何がそれを妨げているのでしょうか。

当人は死んだと気がついた時には、もう意識がなくなっているわけだから、その時はどうでもいいのだけれども、だからこそそこに至るプロセスを大事にしたいと思うのです。

残念ながら死はいつ来るかわからないからこそ、今を一生懸命生きるしかないというのも真理でしょう。
でも、もう少し視野を広げると、地球上にこれまで誕生した生物の99.9%は絶滅してきたという歴史がある。
個体の死だけでなく、種としての死や絶滅は圧倒的な確率で存在していることを私たちはほとんど意識していません。

もう少し、必然としてやってくる死は前向きに迎え入れることを考えた方が良いのではないかと、近ごろしきりに考えます。

苦しく辛い思いは誰もが避けたいことですが、その苦しさ、辛さを、まるっきり自分のコントロールの及ばない他人の「管理」に委ねたくはないのだというようなことを、身近なある人はよく言う。

何事も世の中すべて自分の思う通りにはいかないのが常ですが、個人の選択の自由は、可能な限り納得のいく道を選べるようでありたいものです。

人間に同化した歴史がもう長いばかりに、吾々俚もつい余計なことを考えてしまうようになってしまいましたが、ここでも自然という最高のお手本を忘れずにいたいものです。

#月夜野タヌキ自治共和国