例年だと年末は、大抵ワーグナーを聴くことが多い。
第九ではなく、ワーグナー。
FMで流れるバイロイト音楽祭を楽しみにしていることもありますが、それ以上にもっぱら「ニーベルングの指環」と決まっている。
毎年のようにリンクを貼るこの記事、何も日本だけの感覚ではなく、ちょっと前までは世界共通の感覚でした。
何よりクリスマスイブこそ、イブは、一日を分けるイーブンからきているもので、今でいう前日の日没から一日が始まっていた名残り。
だいたい午前0時0分などというデジタルの時間感覚そのものが、自然からの乖離そのもので、時のながれは、それぞれの生命のあり様によって異なるといのが、人間の感覚だけではなく物理的にも正しい。
と、ここで今回ワーグナーを聞けなかった理由になるのですが、ここ数ヶ月、ワーグナーの大きな物語・神話・神話的叙事詩に対抗して現れたブレヒトの『三文オペラ』、つまり、日々の小さな日常出来事のなかにある物語、具体的人間のあり様に注目するポストモダン以降の世界観にずっと引っかかるものを感じていて、その整理に時間を取られていました。
引っかかっていたのは、大きな物語以降のポストモダンの潮流を我々の世代は、だだの流行哲学、あるいは解釈学の世界の話として、個々の話は面白いけれども、どれも小粒にしか見えないとしてあまり相手にしてこなかったもう一つの背景がぼんやり見えてきたことにあります。
それは文化人類学であっても、都市、文明の側から未開社会を覗き見しているだけのような印象で、同じ土俵の上の存在として捉えきれていないように思えてならないのです。
そうした違和感を、最近になってようやく奥野克巳の文化人類学が解決してくれたような気がします。
強引に短くまとめると、大きな物語、神話を必要とする世界から、国家や都市の内側からみた時々の人の在り様のなかに全体性を見ることに軸足が移った現代に、ようやく地球生命や人類の歴史からはあまりに短い文字言語の歴史だけに囚われない視覚的、聴覚的な生命コミュニケーションの土台が高度な文明社会も含めて貫かれているという感覚です。
文字言語によって説明されなければ話にならないかの錯覚に囚われたわれわれ世代と違い、今の若いデジタルネイティブ世代は、自然との五感による接触が乏しい反面、テキストだけにとらわれない映像感覚を生まれたときからYouTubeや音声アプリなどで慣れ親しんでいる。
こうした時代感覚が、昨年、月夜野の月という文字が「お月さん」の月ではなく、地形由来の「突き」「付き」「築」「着き」
からきていることをまとめる作業をしているうちに、一気に花開いた。
地形由来のツキは、神の依代であることで、そこは同時に人の依代であり、そうした場所で交わされた言葉は、心の依代にもなっているということです。
そうした依代は、国家や都市を前提としたものではなく、身近な、ごく小さなコミュニティのなかでのみ可能な世界。
もちろん、それがが次々と都市や国家に飲み込まれていくのも自然な流れには違いないのですが、そうしたことの土台構造自体は、生命が続く限り、科学技術や文明がどんなに進歩しても変わるものではありません。
エッセンスだけをぶち込んだ文ですみませんが、昨年、ある団体から月に関する一文を求められた折、その団体の性格から文字数の都合もあり削除した部分こそが大事なことであったと気づいたので、ここにメモしておきます。
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