月夜野という土地の地名由来は、むかし源順(みなもとのしたごう)がこの地を訪れた時に、三峯山からのぼる月をみて「おお、よき月よのう」といって歌を詠んだことによるという「伝説」が定着しています。

また「上毛かるた」でも知られる義民、茂左衛門 も、いくつかの古文書資料がありながらも、多くは江戸時代に偽造された資料で、これも史実ではないと研究者たちが指摘している「伝説」があります。

このどちらも、地元の人たちの間では広く知られ定着した話なのですが、必ずしも史実であるかどうかは共通認識が定まっているわけではありません。

つい先日も茂左衛門伝説の物語を紹介した冊子か何かで手に入るものがないかどうかを地元の人にあらためて確認してみたのですが、今入手できるものはない(1枚ものの概要解説のものはあります)との返事が返ってきました。その理由も、過去に刊行されたものは専門家から記述に誤りがあるとの指摘があり、増刷することはできなかったとのことでした。 

実は、こうした「伝説」が、史実であるかどうかの論争と、その扱い方や評価の仕方は、いま私たちが行なっているこのブログをはじめとした活動では、とても大事な論点になっています。

それは何が正しいのかを明らかにすることよりも、そうした問いかけを続けることが大事であると考えています。
願わくばそうした歴史や風土を問い続けることを通じて、この土地固有の物語を発見し、育て磨き上げていくことこそを最終目的としています。 当然、こうした活動は長い時間をかけた根気強い問いかけと練りこみを要することで、こうすれば大丈夫などといった明確な方法論があるわけではありません。

そんな思いを持ちつつ「月夜野百景」やこのブログを続けているのですが、先日、思わぬところから大事な指針を得ることができました。 それは、ドイツ中世史を専門とする歴史学者、阿部謹也の『ハーメルンの笛吹き男』を読んだときです。


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阿部謹也『ハーメルンの笛吹き男』ちくま文庫

写真後ろのハードカバーは、1974年刊のもので、わが家の棚の奥に埋もれていたもの。
以来40年以上にわたり売れ続けたロングセラー。現ちくま文庫版は36刷!

これほど長い間売れ続けている名著なのですが、この本が今あらためてちょっとしたブームになっています。

お恥ずかしながら私は、いつ買ったのものだか随分昔に読みかけてすぐに挫折して、棚の肥やしになったままのものをこの度ようやく読み通しました。



そこで、幸運にも次の明快な一文に出会いました。

「伝説とは本来庶民にとって自分たちの歴史そのものであり、
 その限りで事実から出発する。」

ここでいう「事実」とは、単純に学者の言う「史実」とは解釈しないことが大事です。もっと広い意味で捉えるなければなりません。

そして少し長い引用になりますが、以下のように規定しています。

「そのはじめ単なる歴史的事実にすぎなかった出来事はいつか伝説に転化してゆく。そして伝説に転化した時、はじめの事実はそれを伝説として伝える庶民の思考世界の枠のなかにしっかりととらえられ、位置づけられてゆく。この過程で初発の伝説はひとつの型(パターン)のなかに鋳込まれてゆく。その過程こそが問題なのであって、こうして変貌に変貌を重ねてゆく伝説の、その時その時の型をそれぞれの時代における庶民の思考世界の次元をくぐり抜けて辿ってゆき、最初の事実に遭遇したとき、その伝説は解明されたことになるのかもしれない。

 しかしそれはなかなかむずかしい。解明しえたと思ったとき、気がついてみればわれわれがわれわれの時代環境のなかで、伝説の新しい型を「学問」という形で形成していることになるのかもしれないからである。伝説も庶民が世界と関係するその絆であるし、学問もわれわれが世界とかかわる関係の表現であって、そこには本質的な違いはないからである。(中略)
 
 だがそれはそれでよいだろう。困るのはドバーティンのように伝説の形成と変貌の過程を自分の身でくぐり抜けようとせず、いきなり初発の事実を解明しようとする態度である。初発の事実そのものはなんの変哲もない出来事であったかもしれないのである。それほど大きな出来事でもないことが、その時々の人びとの心のなかに深く刺さり、沈殿してゆくとき、それは伝説として語り継がれてゆく。」





先に「事実」を「史実」と読み違えないように気をつけなければならないと指摘しましたが、そのことを阿部謹也はさらに次のように明記しています。

「しかしその虚像を史実でないと否定していた啓蒙思想家の多くは、民衆にとって長い年月の辛苦のなかから滴りおちるようにして生み出されて来た虚像の方が、無味乾燥な「史実」よりも重い意味をもっているということを理解しえなかったのである。」


このブログ「物語のいでき始めのおや」で追求していきたいテーマの核心を見事に表現してくれています。

かといって、私たちがそれを簡単にこれからやっていける保証にはなんらならず、まだまだとてもやっかいな道のりがあるのですが、この一文に出会えただけで、大きな希望を持つことができたのは確かです。

やっかいなテーマに取り組んでいると、いつも自分一人では解決への展望がその場では見えなくとも、思わぬところから手がかりが舞い込んでくるものだとあらためて感じました。